『the blue like a dream』

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この物語を、玖壱さんに捧げる。

アドレー・バーンズという男の、lost sanctuaryという世界の、僕自身の文章の、そして今後へ続く一つの物語のスケッチとなる作品です。
彼は頭のいい人間ですが、ある種の寂しさと羨ましさを持っている。
そして少しだけ懐かしいそれに、気付いてしまう。
いや、もしかしたら、ずっと前から気付いていたのかもしれない。

羨望と懐古は、何を生み出すこともなく、人の表層と奥底に在ります。
空の青を映す彼の目は、それをどう見つめるのでしょうか。

Written by JOEmasa



 アドレー・バーンズにとって、その時間はいつも特別なものだった。
 ビルの谷間から陽が昇り、この街の空がまた嘘のような青さを取り戻すとき。彼はゆっくり身体を起こすと、決まって背を向けて寝ている女を起こさないように、そっとベッドを抜け出すのだった。狭苦しいマンションのキッチンで吸いかけの煙草をくわえ、義体化した部位と長年連れ添った銃を念入りに調整する。決まって静かな朝だった。
 やがて少しずつ車の行き交う音や鳥のさえずる声が、寂しげに耳に入ってくる。それからしばらくすると時間通りに新聞がやってきて、彼はそれを手に取り、今日もまた適当なページを開きながら朝食の用意を始めるのだ。
 政治家の汚職、ネットシステムの構築状況を虚偽報告した疑い、ベースボールの試合結果、切手一枚が数千万で落札された、現代における宗教についての学者先生による論評、食と栄養から考える新たな人類「シフト」、他シティに見る教育と精神ケア。
 トースト、目玉焼き、そして一杯のコーヒー。彼の朝食は昔から変わらない。目一杯ミルクと砂糖を入れたそれを飲みながら新聞を閉じると、メールをチェックし、ろくに確認していなかった仕事内容を斜めに読む。しかし、ほとんどの場合その必要はない。案の定、そこには片付ける男の情報が羅列されているだけだった。
「仕事?」
 ベッドルームから、シャムが顔を出している。ほんの少し入ってきていた朝日が彼女を照らし、白い素肌を透き通らせる。アドレーがああと答えると、彼女は長い黒髪を後ろで結いながら部屋へと入り、自分のカップにコーヒーを注ぐ。そして置いてあった新聞の番組欄を眺めながらテレビをつけ、彼に聞くのだった。
「昨日、酔ってた?」
「いいや」
「そう」
「お前は?」
「まさか」
 だろうなと笑いつつ、アドレーは騒々しい音を立てるテレビから逃げるように離れ、よれたスーツに着替え始めた。彼女はテレビを見ながら、ブラックのままコーヒーを口に運ぶ。そんな退屈そうな姿を朝見れるのも、今日が仕事だという証拠だった。
「お前も仕事か?」
 ん、と答えながら、足を組み替える。
「ほどほどにしておけよ」
「どういう意味よ」
「相手の男のためを思ってさ」
 じろりと、彼女は彼を見た。
「行ってくる」
「ねえ」
 アドレーは立ち止まる。
「いつも言ってるけど、そのネクタイの結び方、間違ってるわよ」
「もうずっとこうなんだ」
「それと、いい加減髪切ったら? うっとうしいの」
「そいつは考えとくよ」
 後ろ手に答えると、彼は靴を履き、ドアから出て行った。


 太陽はこの街から色を奪う。
 強烈な光は高いビルで白と黒に引き裂かれ、見事なモノクロームを演出していた。高層ビル、教会、公園、廃墟、建設途中の鉄道、ガード下、市場、街路樹、露天、安っぽいバーの看板、まるでおもちゃ箱をひっくり返したようなこの街も、その全てが単色に染まっている。そんなとき、アドレー・バーンズは決まって空を見上げるのだった。
 するとその小さな世界はいつも青く青くあり、彼はこの薄汚いマンションの入り口からしばらくそれを見続けた後、再びこのパンドラと呼ばれる都市へと身を投げる。時刻は六時、まだ人通りもまばらだった。
 ダグ・アスケルと言う名のその男が、雑魚中の雑魚であることに疑いはなかった。罪状なんて気の利いたものは当然知らされていないが、どうせまた組織の尻ぬぐいだろう。嫌気がさして逃げ出した馬鹿を始末してほしい、要するに体裁のために嘆息混じりに送られてきた依頼で、そいつの生死など実際はどうだっていいはずだ。アドレーの性格はもちろん慎重とは言い難いものだったが、例えこの仕事を受けたのが、公共のデータバンクへ調べ物でアクセスするのにさえ、防壁を何重にも張り巡らせる神経質な男だろうが、やはり彼と同じように、わざわざ情報屋に寄るなんて面倒なことは避けたに違いない。
 大通りを抜け、路地から路地へと歩いていく。日々好き勝手に作り替えられるその一帯は、表示していたマップに価値がないことを訴えていた。アドレーは頭をかくとそれを消し、邪魔ながらくたを蹴り飛ばす。音のなかった日陰に、金属音とそれに文句を言う男の声がしばらく響いていた。やがて子供の遊ぶジャングルジムのようにいくつもの建物をくぐっていくと、探していたドアへと辿り着く。
 煙草に火が付いた。アドレーは今にも朽ち果てそうな椅子に乱暴に腰掛けていた。一つ目は外れ。残り三つの中であといくつ回ることになるのか、そう考えようとしたところでその不毛さに考えが及び、彼はやめる。
 まったく、陰鬱になる部屋だ。外部とはほとんど隔絶されている上に、照明も切れている。その暗さの中で塗装がはげた壁やバラバラになりそうな家具が、何かに怯えているように見えるのである。急いで逃げたのだろう。見捨てられていった服などが恨めしそうに横たわっている。安物の煙ですら、居心地が悪そうだ。
 長く息を吐き、煙草を机に押しつけて部屋を出る。誰かが言い争う声のする中、路地へ戻って大通りに抜けると、人通りも大分増えていた。アドレーはその中をのんびり歩きながら次のバーへと向かう。結局見つかったのは、最後の古い一軒家だった。
 扉を開けたときには、すぐに分かった。ギシギシと呻くその白い入り口から見えるのは、二つの部屋と奥の階段。アドレーは銃を右手に持ち、中へと足を踏み入れた。何者かの存在感、それがこの家の中には充満している。
 階段は避けたかった。部屋を一つ背負うのは気に入らなかったが、彼はまず最も奥にある、ドアが開け放たれたダイニングへ向かう。階段上を警戒しながら辿り着き、銃を構えた右腕から差し込んだ。日当たりの良いその部屋には、孤独を訴えることもせずに、ひたすら誰かの帰りを待つ小綺麗な家具だけがいた。
 コツコツと、小さいながらも靴が鳴る。彼はその響きを止めることなく下の階を一通り調べたが、やはりそこに男の姿はない。もう一度階段に注意を向ける。作戦でも立てるか、そう自問したところで苦笑した。くだらない、そう思ったのだった。
 彼は跳んだ。鈍い音と共に床が砕け散り、続いて蹴られた壁には遅れて弾痕がついていた。アドレーはそのまま二階の寝室に転がり込み、そこから半身を乗り出して銃撃を行う。廊下は一直線だ。しかし既に男の姿はない。四散したのは奥の窓だった。
 ゆっくりと部屋から出て、壁沿いに歩を進める。逃げ込めた部屋は二つ、扉の閉まった手前と開け放たれた奥。音は何一つ知らせてこない。どうやら向こうから仕掛ける気はないらしいことを知り、彼は一旦立ち止まる。舞い上がった埃が、いやにはっきり見えた。
 彼は一瞬考えたものの、今度は苦笑する間もなく、体を隠して手前の扉を蹴破った。それはあっさりひしゃげたかと思うと、今度は銃弾を数発受けて木片へと帰す。どうやら奥に銃口を向けておく必要はなかったようだ。アドレーは姿勢を低くしながら部屋の中へ姿を晒すと、今度は上へ飛び跳ねる。弾丸はそれを追い、天井に二つ穴を開けた。
 空中での蹴りは大した力は持っていなかったものの、義体化していないその男のバランスを崩すには十分だった。着地と同時に銃を向けようとするが、既に相手も間合いを詰めてきている。銃を持つ右腕を左手で捉えたものの、こちらも武器を使える距離ではない。アドレーは捕まえたその手で更に引き寄せると、頭突きを食らわした。鮮血が散り、今度は右手の銃のグリップで殴りつける。呻き声はその一撃でかき消された。男は吹き飛び、壁にぶつかってもたれかかる。
「ダグ・アスケルか?」
 意味のない問いだ。その問い自体にも、問いかけることにも、そして返ってくる答えにも、何一つ意味などない、そんな馬鹿げたものだった。壁を背にぐったりとしたその男は、しかしこちらを睨んで何も言わない。アドレーはぎらぎらと奇妙に光る彼の瞳を見て、ふざけたことを言ったと少しばかり後悔していた。
 その髪の短い若者は向けられている銃口をちらとも見ず、アドレーを見据えている。血を吐くときも、口から下を真っ赤にしながら、瞬き一つしなかった。アドレーはそんな目を見たのが、実に久しぶりだった気がした。
「じゃあな」
 何故そんな言葉が出たのか、それは分からなかった。だが彼は確かに、引き金を引いた頃には後悔をしていた。本当にくだらないことをした、と。


 一匹の猫が、道路を横切っていった。この街の夜との付き合いも長かったが、シャムはこうして動物を見るのが初めてのような気がしていた。猫は走る車を器用に避けていくと、向こう側の暗闇へすっと入っていく。彼女はビルの明かりの中でそれを見送った後、いくらか時間が経っていたことに気が付いた。
 シャムという名は、もちろん彼女の親がつけたものではない。しかしそれを問う人間どころか、彼女を名前で呼ぶ者すら稀だった。それはアドレーにしても例外ではない。だから何故彼女がシャムと言うのか、そしてそのスペルすらも、恐らくこの街では誰も知らないのだろう。ひょっとすると彼女自身、もう忘れてしまったのかもしれない。
 ドアを開けると、部屋は全く暗かった。そんな中かすかに流れる音楽を辿り電気をつけて奥に行ってみると、アドレーが目を閉じ、椅子に深々と座っている。流れている曲は大昔にロックンロールと呼ばれたものだったが、音楽などほとんど聴かない彼女にそんなことが分かるはずもなかった。
「よう」
 アドレーは顔を向けずに話しかけてきた。起きてたの、とシャムは着替えながら言う。だから彼女は見ていない。アドレーの穏やかな表情、何かいい夢でも見ているかのようなそれを。曲の中ではゆったりとギターが弾かれ、男が一人声を振り絞っていた。
「相変わらずそんなの聴いてるのね」
 彼女は既にあった簡単な夕食を火にかけると、テーブルに頬杖をついてアドレーの方を見た。彼はまだ出かけたときのスーツのままで、彼女の方を見ることもなく耳を澄ませていた。そして彼にしては珍しく、こうしたことで口を開いた。
「こいつらは夢を見てるんだよ。まだ自分達がロックだなんてふざけた夢を見続けてる、馬鹿な連中なんだ」
 もちろんシャムからは興味のなさそうな返事しか返ってこなかったが、それにしてはアドレーは満足そうにしていた。そしてうるさいから止めてと言われる前に音楽を切ると、食事を始めた彼女の前で一人酒を飲む。その安酒の味は酷いものだったが、彼は酒を飲むという行為そのものに意義を見出す男だったため、そんなことは気にもしない。もとより、酒がうまいと思ったことなど、一度もなかった。
「おい」
 カチャカチャと彼女が食器を使う音だけがしていた。
「始まるぞ」
「うん」
 彼にしては遠回しな言い方だったし、彼女にしては随分と素直な返事だった。そしてお互いそれを覚えていたことに、何かを感じないこともなかった。どうせ忘れているだろうと思っていたことも事実だが、覚えていたことに大きな驚きもない。唯一気になることがあったとすれば、何故映画だのと言ったものが嫌いなはずの彼女が、昨夜突然一緒に見ようなんて言い出したのか、ということだった。
「これ、見たかったのよ」
 彼の疑問に答えたのか、彼女はテレビをつけながらそう言った。そしてアドレーの酒を取って一口飲むと、途端に黙り、ほんの少し真剣になったように見えた。やがてピアノが鳴り、その随分と古いらしい映像は始まった。
 いやに真面目なラブストーリーだ。台詞にだって何のひねりもない。登場人物も少なく、いつだってカメラは男と女に当てられている。何か大きな事件が起きるわけでもなく、ただ時が少しずつ過ぎていく。そんな退屈な映画だった。アドレーはその映画を見ているのか、それともその向こう側を見ているのか、とにかく画面を見ながら、聞こえてくる台詞と音楽を聴いている。それにしても、退屈な映画だった。
 ふと見ると、シャムはいつの間にか寝息を立てていた。彼の近くで、子供のように眠っている。映画も終盤だったが、男と女はまだくっつきも離れもせず、雨の中で長々と話していた。酒をもう一杯口に入れる。まずい酒だ。アドレーはそう思うと、テレビを消して服を脱ぐ。こんな日は特に、この部屋にろくな窓がないことを幸運と思うのだ。アドレーは、この街の夜が気に入らなかった。
 ベッドの上に座ると煙草に火を付ける。煙を長く吐き、寝転がった。彼は昼間の男の瞳をじっと見ていた。それはまばゆい光を見たときのように彼の視界に焼き付き、いつだって影のようにゆらゆらと浮かんでいる。もう一度煙を吸って吐くとそれを消し、瞼をおろした。暗闇に包まれる。だがやはり、あの男の瞳はこちらを見ていた。


「仕事がある」
「久しぶりだな」
 一体いつから起きていたのか、それとも一睡もしていなかったのか、自分でもはっきりしない程、アドレーはすぐに受け答えをしていた。
「売り物を持って消えた男がいる」
「中身は」
「必要なことは送ったデータを見てくれ」
 通信は一方的に切られ、彼はしばらく天井を見上げていた。相手の態度はともかく、どうも気乗りしない。それはいつものこととは言え、今回は何か、ほんの少し違う気もした。だが報酬は既に払われているだろうし、無視をするわけにもいかない。吸いかけの煙草をくわえて送られてきたものに目を通すものの、やはり盗んだものが何かも書かれていなかった。
 真っ暗闇の中、煙草につける火が揺れている。それを消すと、闇の中で淡い白がしばらく付きまとっていた。突然、彼の左腕が冷たい感触に包まれる。
「仕事?」
 いつだってそうなのだ。彼女がこう聞くときは必ず、しんとした水面のような目で、こちらを見つめてくる。今だってそうであるに違いない。
「人のものを盗んだ馬鹿がいるんだ」
「そう」
「だからそいつを捕まえなくちゃならない」
「うん」
 外で車の走る音がした気がする。彼女に何かしら仕事のことを口にしたのは初めてだった。彼女は何も言わなかったが、彼の腕を放すこともない。ゆらゆらとうごめく紫煙だけが、その部屋の秒針を進めていた。
「昨日の映画、最後まで見た?」
「いいや」
「あの二人、別れちゃうのよ」
「お前、起きてたのか」
「ううん、知ってるの」
「……そうか」
 彼女は、手を放した。アドレーは煙草を消すと立ち上がり、暗がりの中でスーツへ着替える。手早く済ませ、握った銃を一度見た後、彼は部屋から出て行った。陽が昇らないこの時間は、まだ少し冷えるようだった。
 エンジンをかけると、古い型のそれは悲鳴のような声を出す。すぐさま音楽でその不快な音をかき消すと、思い切りアクセルを踏んで発進させた。車はライトで帯を引きながら速度を上げ、寝静まる街にいらだたしげな音を響かせる。彼は普段から嘆息も舌打ちもあまりしない人間だったが、今日は何故か、妙にそれをしたくなる。
「ノエル・クロフトだろ」
 開口一番、初老の男は口端を上げてそう言った。昼夜問わず白という色に満ち、生理的嫌悪感を感じさせる程に整えられたこの病的な空間が、彼の住処だった。その聞き耳の早さに呆れつつも、吐き気を催すこの場から離れたく、アドレーは口早に値を尋ねる。
「そう慌てるなよ。まずはお前の持ってる情報を出しな」
 男は受け取ったものを表示して一瞥すると、苦笑して投げ返す。
「相変わらず信用されてないみたいだな。そこには全部いねえよ」
「だからこんな所に来たんだろ」
「二日前からシヴァが組織を挙げて血眼になって探してやがる。えらいもん盗られたらしいって言うから調べてみれば、どうやら本物のクスリらしい。結構な量だからまともなルートで捌ければ莫大な額になるだろう。組織も無視できん程のな」
 男が電脳麻薬の常習者と知っているアドレーは、羨ましいみたいだなと皮肉を言う。
「冗談。俺はバーチャルが好きなのよ」
「とにかく、中身が何にしたって、少なくとも俺には知らされていない。要するに開けるなってことだ。関係ないさ」
「お前にはそうでも、他は違う。こいつはもう十分有名な話だ。消えちまった宝物がもう一度戻ってくるとは限らないだろ。そこに宝箱があれば人は拾うもんさ」
「開ける前に中身を知っているなら、尚更か」
「組織だって動いてるのはシヴァ含めて三つ、今のところ分かってる状況はこいつを見ろ。他には賞金稼ぎ気取りの馬鹿が何人か首を突っ込んでるが、こっちは問題にならんだろ」
「金はそんなに払えないからな」
 あまりのサービスの良さにアドレーが釘を刺すと、男は待っていたとばかりに、不機嫌そうな声でいつも通りでいいと言った。
「その代わりそいつらに二、三発ぶち込んでおいてくれ。奴ら俺の情報をあさろうとしやがった。接続してきた馬鹿どもは始末してやったが、気が済まん」
 それに適当に返事をすると、男は最後にもう一度呼び止めた。
「それと、少しくらい土産があったら、次もサービスするぞ」
 苦笑しながら部屋を出て、アドレーは車に乗り込む。どうやらそろそろ陽が昇り始めるらしい。フロントガラスはその深い色味で満ちていた。
 データを見ても、別段危険な相手ではない。一つ挙げるとすればその男がシフトだと言うことだが、既に新人類と取り沙汰されて久しいそれもさして珍しくもない。単純な身体能力の向上が例えある程度戦闘に向いたものだとしても、それそのもののために最適化された義体を持つ人間、例えばアドレーのような者を相手にするにはどうしても劣る。
 だが、と信号のためブレーキを踏んで考える。このノエルという男は既に組織の男を七人も殺して振り切っている。シフトは義体化した人間と違って痛覚を切ることもできないし、例え腕一本でもダメージは致命的となるはずだ。しかし見つけた者が次々にやられていったらしい状況を見ると、怪我一つ負わせることも適わなかったのだろう。
 アドレーは煙草に火をつけるとアクセルを踏んだ。そこで車に臭いをつけるとまたシャムがうるさいと思い出し、窓を開け、詮無いことを考えるのはやめた。組織の者のやられ方を見ても状況を考えても、さして特別なことはない。結局彼の危険性と実力は想像の域を出ないのだから、今はただ車を走らせた。
 段々と、雑然としていた街並みに変化が起こる。やがて整った道に、鮮やかな街路樹がさわさわと鳴く。彼が車を降りる頃には辺りはそんな絵になっていた。ドアを閉めると、道路には何の往来もない。彼は煙草を吸いその煙を吐くと、居住地区であるにも関わらず人気が感じられないその風景に眉をひそめた。近頃開発の進んでいるこの辺りは、街の中でも行き届いた清潔さと住み心地の良さを散々宣伝していたように彼は覚えている。
 煙草を投げ捨て火を消した。そこから見上げれば新緑があり、涼しげな風が舞っている。アドレーはその様から目を背けると、まだ人の住んでいない新しい棟へと足を運んでいった。ノエルには女がいる。彼女とここで会うはずだった。
 セキュリティはほとんど死んでいるらしい。機械であろうと人であろうと、それらの機能を停止させる方法があまりにずさんで力任せである様からは、男が焦っていることが見て取れる。激しく殴られたらしい警備員と、破壊し尽くされたその部屋から離れると、アドレーは少しばかり喉の渇きを感じ、頭をかいた。


「ねえ」
 沈黙が、広々とした部屋に満ちていた。大分前から陽光がノエルの横顔を照らしていたが、彼はそれに気付いてすらいないように長く息を吐き、また大きく吸っている。汗がしたたり落ち、血走った目の横を流れていった。彼女は続きを声に出そうとしたが、しかしこれまでと同じく、その静けさと彼の息づかいに口を閉じてしまう。そしてまた幾ばくかの時が流れようとしたとき、ノエルが身体を折り曲げて咳き込んだ。
「ノエル!」
 彼のそのブロンドの髪をかきあげてリタは寄り添うと、もうやめてと言いかけたが、それをこらえた。彼を抱きしめ、その長くかすれた咳が止まるまで。部屋にできた小さな日だまりの中にいることしか、彼女にはできることなどなかったのだ。
「俺はやられない」
「ええ」
「だから大丈夫だ」
「分かってる」
「誰が来たって」
 再び咳の中に、言葉は消えていく。それでも彼は途切れ途切れにあと一日でいいんだ、あと一日保てば大丈夫なんだと呪文のように言い続けた。それは今肌を触れている彼女すらも忘れてしまったのではないかと、そんな脆さを感じさせる。だがそれでも、彼の目は恐ろしい程にしっかりと見開かれているのだった。
「来た」
 突然口調が明朗なものとなる。彼はリタを引き離すと更に眉を険しくし、一点に集中された視点とずれていく焦点の狭間で何かを探していた。また息が荒くなっていく。その様子から彼女は顔を伏せたが、彼の手が再び薬に伸びたとき咄嗟にその腕を掴んだ。
「やるしかないんだ」
「でもこのままじゃ」
「二人とも殺される」
 そこまで言うとノエルはふっと笑い、大丈夫と囁いた。彼女は重ねられた彼の手を握ろうとしたが、それすら適わない。薬を吸い込んで咳き込みながら立ち上がると、彼はリタと自分を物陰に隠し、扉へ腕を突き出して銃を構えた。外に、何かがいる。
 銃声。鍵は壊されたようだ。ノエルの身体が震えていることを、彼女は知っていた。ドアは開かず、互いがそこにいる実感、それのみが増していく。次第に鋭くなっていく五感の中では、相手の息づかいまでもが聞いて取れるかと思う程だった。いや今聞こえているそれは、ともすると本物なのかもしれない。
 噛みしめていた奥歯がみしりと音を立てる。先に動いていたのはノエルだった。突き出された銃は煙を吐き、扉にいくつもの銃痕が現れる。薬莢が落ち、カチカチと引き金の音が響いた瞬間、ドアは蹴破られた。半分出ていたノエルの頭をめがけて三発の銃弾が迫る。が、それは部屋の内装を削ったのみだ。
 ノエルはリロードすることなくその銃を捨て、新しいものを手に取った。更にもう一度火花が散るとアドレーの影が流れ、屈んだ彼の上を銃を持った腕がなぎ払う。凄まじい力で砕け散った壁を見上げながら、彼はリタの隠れた部屋から遠ざかるように間合いを離す。アドレーが、先に撃つ。
 目を見開く。アドレーは眼前の結果に驚く自分を、寒気がするほど冷静に感じていた。手応えを得た軌道から敵は消え、彼の左肩には既に一発の弾丸が撃ち込まれていた。半身がのけぞり、弾け飛ぶ薬莢の動きがゆっくりと、明確に見える。衝撃に逆らわず床に転り、アドレーはそのまま窓を突き破ってベランダへと出た。銃弾が、頬に一筋の熱を残していく。
 壁に隠れる前に放った一発を最後にして、再び無音が帰ってきた。アドレーは珍しく眉をひそめる。肩の傷は大したことはない。左手を握りしめて感覚を試しつつ、彼は壁越しの気配を探り思考を巡らせていた。あの距離と状況から弾丸がかわされたこと、その後の体勢から避ける間もなくこちらに命中させてきたこと。仮に後者が偶然だとしても、既に銃という条件とあの距離のアドレーは死んだのだ。
 妙に煙草が吸いたかった。アドレーは敵が最初じれて動いてきたことに、もう一度賭けてみようかと考える。だが広大な空とそこにそびえる入道雲を見上げながら、彼は今対峙している相手が徐々に遠ざかっていくのを感じていた。やがて、彼の意識は遙かな青に浮かび、今の自分を、あたかも高いところから俯瞰しているかのような視覚に襲われていた。高く高く、だが妙に、その画は克明だ。
 過去を振り返ることがないわけではなかった。見ないふりをする勇気があるわけでも、斜に受ける力があるわけでもなかったからだ。だが今の自分を省みることはしたことがなかった。くだらないと思っていたし、何より嫌な予感がしていたからだ。
 咳が、聞こえた。咄嗟に踏み込んだアドレーに弾丸が襲いかかるが、それは脇を抜けていく。だがアドレーのものも同様だ。距離を詰める。相手の胸に突きつけようとするその時に、銃は叩き落とされた。だが、ノエルにしても近づきすぎて間合いではない。
 アドレーの拳が頬を捉えた。左に流れた彼の体を、次は蹴りで押し戻す。その衝撃で、手に持っていた銃が床を撃った。回転をそのままにバックブロー、ノエルは口から血の軌跡を描き壁に吹き飛んだ。乾いた音を立てながら銃が床を滑っていく。
 跳び蹴りを放つ。しかししゃがんでいたノエルは、その隙に腹を捉える。拳の応酬が数度続いた。アドレーの右が顔面を、左が脇腹を捉えたときだ。ノエルが再び咳をした。明らかに、打撃によるものではない。そのまま崩れるように体を折る彼を見て、アドレーは落とされた銃のところまで跳び、それを構えて突きつけた。
 激しい息づかいと乾いた咳の音が、響いていた。陽が差し込み、部屋の中に強い明暗を作り出している。アドレーは言った。
「終わりだ」
 くだらないことを口走ったと、彼はまた悔いる。仕事の合間に無駄口を叩くのは今に始まったことではなかったが、これほどくだらないことを言うようになったのは昨日からに違いないと、彼はそう思っていた。引き金を引く、ただそれでいい。アドレーに来ている仕事は男の始末だ。なくなったものの居所を聞き出す必要もない。簡単な引き算で済む問題だし、彼にはそれ以外をする気などそれこそなかった。
「来るな」
 目を向けもしない。
「お前は俺には関係のない人間だ。すぐに消えろ」
 だが女はアドレーの銃口など一瞥もせず、ノエルに覆い被さった。表情は見えない。
「もう許して……」
 どうやら、泣いているようだった。アドレーは女が泣くことが嫌いだった。
「盗ったものは返します。だから逃がして……」
「俺が見逃しても、どうせまた次が来る」
「お願いだから……」
 左頬が熱い。いつの間にか、差した陽がずっと当たっていたらしい。ノエルは荒い息の合間に苦しそうに咳をして、女は彼の背にしがみつき泣いている。アドレーは銃を構えたまま、ほんの少し、昔を思い浮かべていた。
「逃げてどうする」
「もう放っておいて……」
 消え入りそうな、声。
「逃げてどうするんだ」
「二人で暮らすのよ!」
「どこか遠くでか」
「そうよ! 誰も知らない所で!」
「この日々も、いつかの夢だったかのように」
 リタははっと面を上げた。そこには銃口が佇んでいたが、向こう側にはじっとこちらを見る瞳があった。
 車の止まる音がした。何台分ものそれを、その場にいた三人が聞いていた。それがさして特別なことでもないように、アドレーは銃をおろす。そして隅に転がっていたノエルのものを拾うと口を開いた。立て、そう言った。
「荷物は捨てろ。奴らがお前の組織の者だろうとなかろうと、少なくとも時間は稼げる」
「あんた、何言ってるんだ」
「さあな、最近自分でもおかしく思う。何故俺はこんなくだらないことばかりしているんだろうってな」
 ノエルに銃を握らせ、肩を持って起こさせた。その身体は驚く程軽い。
「俺は単なる使いっ走りだ。仕事をさぼろうと、誰も気にしちゃいない」
 無言で問う二人にそう答える。しばらくして、警戒するノエルの手をリタが握った。次第に男達の声と足音が大きくなってくる。アドレーは煙草を取り出そうとするが、その箱が既に空だと言うことに気付いた。振り返ると、二人がこちらを見ている。
「俺たちは、自由になりたいんだ」
 青臭い台詞だ。アドレーは心底そう思いながら、空箱をもう一度見下ろした。


 銃声と共に構えられた武器の先で、何かの袋が弾け飛んでいた。一面に舞う真っ白な粉が陽に当たり、青天と混ざり合っては何とも気味の悪い景色を作り上げている。それが自分達の探していたものだと認識できたのは、男達が自身でそれを味わってからだった。
「連中が本当に欲しいのはあいつだ。特にハイエナ共はお前の命になんて興味はない」
 もう一つ撃ち抜きながら、アドレーは言った。すぐにその部屋を飛び出すと、三人は裏手に止めてあるアドレーの車へと走る。エレベーターはもともと動いていない。階段を使って二階も降りなくてはならない。アドレーは二人を手で遮ると、銃を構えながら先行し、一つ下まで行き着いた。
 ほぼ同時に、複数の足音が階段下で止まる。敵もうかつには上ってこないらしい。アドレーは下に銃口を向けたまま二人を来させると、無言でこの先の通路から外へ降りろと伝え、銃の引き金を一度引いた。それを合図に二人は走り出し、その足音は遠ざかっていく。音響が引かぬ内にアドレーがまた袋を投げ、踊り場の上で撃ち抜くと、焦って上がってきた男達がそれを被る。
 その場で二発放ち通路へと下がる。数瞬前までいた場所を銃弾が駆け抜け、遅れて敵が飛び出してくる。咳き込むその男を含め四人仕留めると、アドレーは少し間をおきノエル達を追って下へ飛び降りた。そのときだった。
「ノエル!」
 銃の音と、リタの声が聞こえていく。後には時の流れが残り、アドレーは自分の走る足音を聞いた。弾倉を入れ替えながら動く世界は変に落ち着いていて、草木ですらも全く動こうとしない。建物の影から見える光景が先に入ってくる。後からノエルの咳とリタの叫びがやってきて、アドレーは銃を下ろした。
「お願い、もう無理しないで」
 辺りに散っている血は、側で倒れている黒服のものだろう。アドレーは銃をしまうと何も言わずに彼女をどけ、ノエルを車の中へと担ぎ込んだ。リタも後部座席に乗ったことをバックミラーで認めると、窓から残っていたクスリを放り投げエンジンをかける。強く、アクセルを踏み込んだ。
「捨てろと言ったはずだぞ」
 道を曲がると、開けた場所に出る。まだ開発が行き届いていないこの地区は、しかし整備は施されていて、それは停止した時が延々と続いているようだった。たまに見える大きな建造物と右手に広がる街並みだけが、この車が進んでいることを教えてくれる。
「あれをやると、見えるんだ」
 最初は幻覚だと思ってた、けど違った。ノエルはそう呟いた。
「生きるためにはこいつが必要だ」
「でももう身体がボロボロじゃない」
「ここを出るまでだ。ここから出るまで保てばそれでいいんだ。難しいことじゃない」
 大丈夫さと、弱々しい笑みをリタに向けていた。アドレーはミラー越しにそれを見ると、そのことについて何か言うのはやめにした。彼女もそうだった。
 行き先については、誰も触れようとしない。今自分たちがどこへ向かっているのか、アドレーを含め、それを分かる者はいなかった。そんな中、ハンドルは自然と空港へ向いている、それだけだった。その向こうでも、その手前でもなく。
 ノエルは俯いている。リタは時々彼を見ながら、外を向いている。アドレーは、昔を思い出していた。自分がもっと若かった頃を、思い出していた。結局題名さえ知らずじまいだった歌。それを彼女が口ずさんでいる様を、浮かべていた。
 いつだって幸せそうだったのだ。狭い部屋の中、唯一日当たりのいい窓辺に椅子を寄せ、彼女はよく何が楽しいのか微笑んでいた。手には紅茶だったり、小説だったりを持ちながら、時たま窓からあの汚らしい街を眺め、そしてゆっくり歌うのだ。
 実際、彼女はその街を愛していた。それは彼には到底理解できないことだった。彼はよく陽の届かないベッドにいつまでも寝そべって、彼女の歌を聴いていた。そしていつかこんな所から出て行ってやると、その時は彼女も連れて行ってやろうと、そんなことばかり考えていた。彼女はそれを知ってか知らずか、彼のことを悪戯好きな子供でも見るように、暖かく見つめていた。彼はいつも寝ているふりをして、そっと歌を聴いていた。
「ここの人間は」
 バックミラー越しに、ノエルが見ていた。
「ここの人間は、皆何かの郷愁の中に生きてる。そう思わないか」
 アドレーは、黙っている。しばらく横手の街を見て感傷的になったのか、ノエルは誰の言葉も待たずにまた顔を上げた。
「夢遊病者みたいだよ。気分良く彷徨ってる。そこから覚めようと躍起になってる人間の方が、よっぽど悪夢じみた現実を相手にしなきゃならない。ふざけてると思わないか」
 見れば、リタはまだ外を見続けていた。
「どうやって、出るつもりだ」
「何だってしてやるさ。そのためなら、何だって」
 自分に言い聞かせでもするかのようだ。アドレーは空調を調節する。彼はもう、昔を思い出すのをやめていた。また、誰もが無言になる。ノエルは車内の時刻表示を睨め付けていたが、その数字が一つ変わると再び身を乗り出した。
「なあ、あんたは気にならないのか。ここの連中は、俺たちは目を覚まして生きてるのか」
「さあな。夢は覚めてみなけりゃ、夢だと分からない。宝箱を開けてみなけりゃ、その中身が分からないようにな!」
 アドレーは思い切りハンドルを切った。急激な力に身体は流され、タイヤが悲鳴を上げながら建物の密集する路地に滑り込む。急いで二人が振り向くと、入りきれずにスリップする車が左から右へ消えていった。更に無理矢理カーブをこなし、入り組んだ道へと逃げ込んでいく。資材やゴミを倒してアクセルを踏み続け、追っ手を離していった。
 そこにいた全員が、何故か落ち着いていた。ノエル、そしてリタも銃を取り、それを握りしめている。狭い道を抜けて大通りに出た途端、二人は窓を開け追っ手に向かって引き金を引いた。多くの音は、すぐさま遠くへ行ってしまう。弾倉が空になれば身を隠してそれを込め、そしてまた指先に力を加えた。
 時たま頬のすぐ側を熱い弾丸が走る。しかしそんなものは気になる前に、広がる青に溶けていた。その色の狭間で、何台もの車がこちらめがけて疾駆している様は、何か映像的に見える。今一発の銃弾がタイヤを射抜くと、その一台が他も巻き込み彼方へと流れていった。見るものも、やることも変わらない。それにしてもこの道はいつまで続くのだろうと、前方を見れない二人は思っていた。
「前だ!」
 アドレーの声に咄嗟に振り向くと、突き当たりに数台の車が壁を作っていた。そう思う間にそれは驚く程早く近づいてきて、行動の選択を迫る。ノエルは身を乗り出して撃とうとした。だがその意味のなさに気付く。避け切れはしない。続く思案も意味を持たない。
 誰かが、何かを言った。直後、車は甲高い音を立てながら急激に減速し、前方の車体へ突っ込んだ。流れが止まる。続く音々は、追跡車とそこから降りる者達を教えていた。
 陽は高く、人の少ないこの区画は強く整然とした明暗を保っている。追われていた車はその光の中に佇んで、白い煙を噴いていた。それはまるで、退屈そうに誰かが訪ねてくるのを待っているようだ。何も言わず、少しも動かず、暇つぶしに煙草でも吸うかのように、煙を吐いている。
 遠巻きには中は分からない。一人がそれへ近づこうとすると、別の者が手で遮った。そして十数人の中から四人、車を囲うようじりじりと間合いを詰めていく。慎重に銃を構えながら窓越しに覗こうとするが、電子カーテンが張られているらしい。数秒、何事も起きない。男は対面の者と目配せすると、片手をドアへ伸ばした。
 と、何か。音が聞こえたような気がした。くしゃみか、あるいは咳のような。そしてもう一つ、キンっと言う金属音である。気のせい、かもしれない。だが一時でも腕は止まる。気が付けばドアは開け放たれ、近づいていた四人は倒れていた。
 続いて、発砲音を認識する。自分の構えていた銃まで集中力が戻ったのは、両ドアから躍り出た三人の背を見てからだ。そこからは早い。数発を撃つ間もなく、彼らは前方に停めらた車の陰へ飛び込もうとしていた。
「……!」
 叫び声。敵なのか、味方なのか、その声の主すら分からない。そして目の前は赤に包まれ、その後は何も聞こえなかった。自身の体が中空を漂っている、そんな夢か錯覚か、そんなようなものは、覚えていた。


「リタ!」
 がばと起き上がったノエルは辺りを見回し、リタを探す。だが見つからない。自分達が爆破した車やそれに巻き込まれたものが、炎と噴煙を上げている。無機質な破片と平然とした街並み、もうもうと昇る黒煙と青々とした空。何度見回しても、それしか見えなかった。彼は歩き出した。軽く頭を振ると痛みを覚え、焦点がぼやける。手で押さえると、ぬるとまとわりついてくるものがあった。血だ。
 彼はもう一度、口の中でその名を音にした。痛みが収まるとまた歩き、彼女を捜す。鼓動の音が耳の中でこだまし、今は視覚も聴覚も、全ての情報がうるさかった。時間の流れも、距離感もつかみづらい。記憶が暗転してから一体どれほど経ったのか、一瞬か、一時間か、そして今自分はどれだけの距離を歩いたのか。
「無事か」
 突然背後でした声に振り返ると、そこにはアドレー・バーンズが立っていた。彼はノエルが驚いて向けた銃口をちらと見た後、向こうへ視線を投げた。その眼光からは、何の感情も知れない。しばし銃を突き出していたノエルも首を巡らすと、よく見ればそこかしこに黒服の男達が倒れている。あの爆発で吹き飛ばされ、無造作な格好で時が止まったように動かない。遠目から見れば、それはゴミか何かのようだった。
 アドレーは何も言わずに反転し、突き当たりにあるビルへと歩き出す。しばらくして、ノエルはやり場のなくなった銃を見ていた。ゆっくりと空気が髪をなでる。不自然なくらい鮮明になってきた知覚の中、彼は武器を下ろし、アドレーを追った。ぽっかりと穴を開けた建物の中は、真っ暗に見えた。
 その過程で軽い頭痛はしたものの、目はすぐに慣れる。するとここが廃ビルであることが分かり、先程の爆発や吹き飛ばされた者達が突っ込んだことも、生々しく知れた。見ればアドレーは奥で壁に寄りかかっている。リタは、ほんの少しばかりの明かりを受けながら、そこに眠っていた。
 綺麗だった。長く艶やかな黒髪は薄暗い中でもなお映えて、白い肌を鮮やかに見せていた。彼は顔にかかったその髪を優しくどけてやる。涼しげな眉、長い睫毛。目は閉じられている。指先で鼻を、唇を触れていくと、瑞々しい彼女の頬は埃っぽいその室内で、ぽたぽたと降る涙に濡れていく。いつしか彼は、声を上げて泣いていた。
 アドレーは、ポケットの中にまだ煙草の空き箱が入っていたことに気付く。手の中にあるそれを、今度は潰してしまうと、外の方へ歩いていった。そして眩しそうに、ビルの間の空を見上げる。彼はそこで初めて、はたと思いつく。そう言えば俺は、昔からよく空を見上げていたと。そこに何を探しているのか、何を求めているのかは分からないが、どこにいてもよく、空を見上げていた。いつだって、そうだった。
 何故だろう。そんな問いは、くだらない。くだらなかった。そう思う。
 後ろからは、言葉にならない声が響いている。ノエルはまだ泣いているようだ。これからどうしようか、何と声をかけようか、そうしたことを案じないでもなかったが、どれもすぐあの青に吸い込まれていった。あの深い青へと。
 随分と頭を使う日だ。こんなに何かを考えたのは、一体どれくらいぶりなのだろう。アドレーは静かだった。それくらいしか、できることもなかったのかもしれない。彼は黙って、空を見上げていた。こんなに青い空は見たことがない。まるで手を伸ばせば、届きそうな。そんな青い、空だった。


 扉を開けると、暗かった部屋に西日が差し込んだ。長く床に映った彼女の影の向こうから、小さく曲が流れている。それは何という音楽だったか、彼がいつか言っていたような気がする。彼女は珍しく、そんなことに想いを巡らしていた。
「よう」
 紅い日を浴びた彼は、一瞬影絵のようにも見えた。埃まみれの姿で椅子に座り、軽くこちらを振り向いている。夕陽を受け、少し眩しそうだ。一体どれくらいの間だろうか。シャムはそんな瞳を見つめて、玄関の外で立っていた。
「ねえ」
 彼女は小首をかしげた。彼は、次の言葉を待っている。
「明日、戦争記念公園へ行かない? 仕事休みなの」
「……車。壊しちまった」
 部屋の奥の方を向き、ぼうっと言う。シャムはそれを、いかにも不思議そうに聞いていた。恐らく彼は見ていなかったろうが、その様はとても無垢で純粋なものに感じられる。子供のように。彼女は言う。
「じゃあ、歩いていきましょう」
 その言葉に、アドレーは少しばかりおかしみを感じた。同時に、そこには懐かしさと、何か得体の知れない感情がわき起こる。それを深く考えることも抑えることもせず、彼は、穏やかに笑った。苦笑だろうか。どこか悲しげでもあり、また嬉しそうでもあった。
 シャムは眉をひそめ怪訝そうな表情はしたものの、そのことにはさして興味も持たなかったらしい。
「ねえ」
 代わりに、こんなことを聞く。
「それ、誰が歌ってるの?」
「さあな。名前は分からん」
 アドレーはプレイヤーの方を見た。男が声を枯らし、叫ぶように歌っている。その曲調は哀れなほど泥臭く、歌声も決して上手いとは言えない。歌詞に耳を澄ませてみれば、ひたすらに社会へ文句を言っていた。
「前に、そういうの嫌いって言ってなかった?」
「あぁ。大嫌いだ」
 さっぱりと言った彼の背は、夕陽に染められている。彼女は、笑う。
「あんたって、本当に何考えてるのか分からないわ」
 陽はまだ落ちない。辺りに音もなく、部屋から漏れる音楽だけが流れている。風が吹いた。木々は囁き、それも遠くへ過ぎていく。アドレーは、そうかもな、と微笑みながら呟くと、心地よさそうに目を閉じた。

2008年1月27日